中学校3年生の全国大会は、残念ながら予選落ちでした。悔しかったですが、高校でも陸上を続けるつもりでした。



進学は埼玉栄の特待生の話があったのですが
陸上が嫌いだった母が許さず、陸上をやるならと条件を出され母の出身校に入れられました。



群馬の高校だったので
毎朝5時に起き6時の電車に乗り8時半に登校、2時間半かけて通っていました。
夜になると1時間に一本しか電車がない田舎でしたので、帰るのは9時過ぎ。翌朝5時起き…
勉強は電車の中。
(ふつうに埼玉の学校の方が良かったと思います)



そんな毎日だったので、高校3年間は習い事をやる余裕がなく部活に明け暮れていました。



ハードラーとして入部しましたが
同級生にもう1人ハードル選手がいたので、途中で七種競技も始めます。



七種競技とは
2日間で七種目(100M、100Mハードル、走り高跳び、走り幅跳び、やり投げ、砲丸投げ、800M)の合計得点を競う競技です。



良い記録を出せば高い得点がつき、
それぞれ選手にも得意不得意があるので
最後の800Mを走り切るまでは何があるかわからず、初日はダメでも最終日に大逆転が起こり得る競技です。



自分に合っていたらしく、最後の年はハードルと七種競技で関東大会まで進みます。
(全国標準記録を破れば全国大会に行ける中学と違って、高校は地区予選、県大会、関東大会と勝ち進まなければいけません)




いざ関東大会。
二種目に出場して体力が持つか、、
先生と相談し悩んだ末、ハードルの準決勝を棄権し、七種競技でインターハイを狙うことにしました。


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やりを投げる図。足太い




最後の800M、死に物狂いで走ったのを覚えています。(2日間戦い続けて体力も限界にきています)
 



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実際の関東大会800mの写真。猛者感がすごい。今じゃ考えられない





結果、順位は4位でした。
インターハイに行けるのは3位まででした。



ずっと、インターハイで活躍できる選手を目指してきましたが結局だめでした。
このことが陸上を引退するきっかけになりました。



大学受験は、私が幼い頃から『東大か藝大しかだめ』と言っていた母が強制的に東京藝術大学に決めました。
(他の大学の受験は許されませんでした。母は学歴コンプレックスでしたし、父親を見返したかったのです。親のことを書いているとなんだかうんざりしてきました



再びお稽古に戻りましたが、
9月に師匠が亡くなってしまい、現在の師匠に教えていただくことになりました。



次の回で詳しく受験の話を書きますが、
結論から言うと間に合うわけがなく、一浪します。



藝大受験は、いろんな意味で大変でした。





つづく
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中学、高校、現在と名字が全部違うので消しました



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